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​防衛線

 最古参のゴルツェ殿は、頼りない蝋燭の灯に照らされた粗末な食卓を囲む6人のうちのひとり、ひどく青ざめた顔で固まっている新入りのリクエールを気にする様子もなくパンを口に運んだ。他の者たちも彼に倣って無言で食を進めていく。普段はとりとめのない言葉が飛び交っているこの寒々しい石造りの部屋に、今日は静けさが満ちていた。

 帝国領と連邦領に挟まれた刻青海の海岸に口を開ける巨大な岩窟。そこに設置された《魔王監視所》、そしてここで任務にあたる特殊部隊《聖銀の眼》は世界で唯一、東西中央の三大勢力が公式に人員を派遣して共同運営している組織である。

 ひとりを除いた皆の食事もそろそろ終わろうかというとき、先ほど初仕事を終えたばかりのリクエールが生気を感じさせない声色で零した。

「この、我々の任務には……意味が……あるのですか?」

 隣に座っていた浅黒い肌の大男、ダンはその問いにゆっくりと頷く。東方部族のひとつクレナハ族から抜擢されてここへ着任した彼の外見はいかにも血気盛んな東方の戦士といった風だが、所作には非常に落ち着きがある。

「至極真っ当な疑問だな、リクエール君」

 答えたのはリクエールの対面に座る、3年前に今の彼と同じく西方から派遣されてきた白金の髪のオリアンだった。早くからゼント侯国きっての才媛と謳われ、かつては恐れを知らない物言いで一部に名を馳せた名家の息女も、ここではダンと同様の雰囲気を纏っていた。

「そうだろう、ゴルツェ殿?」

 名指しされたゴルツェ殿は手にしていた杯を静かに置いて、いまだ縮み上がっている新人へまるで父親が息子に教えを授けるような眼差しを向けて言った。

「初めてここへ来た日、誰もが同じことを考える」

 

 《魔王監視所》での主な任務は、その名が示す通り《魔王》の監視だとされている。帝国で死霊術が表立って禁止されるようになる以前の研究によれば、《魔王》は帝国の前身であるランドラ王国建立の時代に発生した死霊であるという。王国草創期のある時期を境に記録から消えた武人が源になっていると考えられており、顕現以降、討伐隊が組まれてはことごとく壊滅し却ってその力を強化してしまうということが100年以上続いた。その後討伐は断念され、畏怖を込めて現在の呼称が定着したということだった。死霊の性質上、人間が感知範囲に踏み入りさえしなければ行動範囲は極めて限定的なため、方針が討伐から監視に切り替えられてからおよそ800年間、《魔王》による人的被害はほとんどなく、現代では一部の領主以外にその存在を知る者は少ない。

 では、誰も近寄らなければ大人しくしていると分かっているものを監視する必要があるのか。実のところ故国でリクエールは主君であるサンラステ侯爵にその質問を投げかけていた。自分が規則にうるさく、人一倍腕は立つが扱いづらい兵士だという自覚もあり、おそらく監視所とやらに送られるのは数年間の厄介払いの意味もあるのだろうと思いながらも、何か実のある任務であればと願っていた。そんな彼に返ってきたのは「伝統」と「放っておいては気が休まらない」との答え。リクエールには、西方人が不倶戴天の敵である帝国の果てまで単身出向く理由としてそれはまったく不十分であるように感じられた。そのため故郷からこの地に至るまでのひと月以上の旅路の中で、彼はいくつかの仮説を自ら用意しなければならなかった。

 しかし、今の彼にとってはもはや監視の必要性の有無や間に合わせの理屈など大した問題ではなかった。

「たった6人で……いったい何が出来るのです?」

 リクエールは今日、物見塔の小さな窓を通して目撃したのだった。岩窟の天井部に空いた巨大な穴から差す魔道灯の薄い光の中、目を凝らしてようやく見える距離に佇む《魔王》。その瞬間、リクエールは自身の身体が無数に引き裂かれる感覚に襲われ、人生で初めて恐怖によって膝を地に突いた。何度となく戦闘経験を積み、その中にはあと一歩間違えれば命を落としていたという状況がいくつもあったが、今日目にしたものと比べればあんなものは危機ではなかったのだ、とリクエールは思う。

「いや、人数の問題じゃない……あれは、どんな軍を用意しても無駄では……」

 それは『死』以外の何ものでもなかった。もし《魔王》が動けば、止める方法はない。ほんの一瞬押し留めることさえ誰にも出来ない。事前に言われなければそれが何かも判らないほどの遠目で見ただけに過ぎないが、それでもそう確信させる存在だった。何故この5人はこんなところで平気で食事など摂っていられるのだろう。

「おそらく、そうだろう。だから、実は我々の任務はあれの監視ではないんだ」

 ゴルツェ殿がそう言うと、リクエール以外の面々は心なしかくつろいだ様子になる。ゴルツェ殿の発言と場の空気を捉えかねていると、ダンの奥にいるやはり東方から来たバラウという小柄な男がわずかに微笑みながら続ける。

「僕らは《魔王》から世界を守っているのではなく、世界から《魔王》を守っているんだよ」

 

 真偽は定かではないが精霊語を操るというバラウの声には人の心を鎮める力がある。

「ここに来る前、君も考えたんじゃないかな。《魔王》だろうが何だろうが、人が立ち入らない場所にいる死霊なら放っておけばいいじゃないか、と」

 実際、世界にはそうした理屈で意図的に放置されている強力な死霊が他にも何柱か存在する。図星を突かれはしたものの、リクエールは今では主君サンラステ侯の言葉に納得している部分もあった。こんな存在を誰の目にも届かない場所に野放しにしておくなど考えられない。たとえ異常を発見したところで対処するすべがないとしても。

「本当に誰も立ち入らないのであれば、私たちは要らないんだがな」

 机の向かいの最後のひとり、帝国の女傑コンシリアが吐き捨てるように言った。リクエールとしては「あれ」に近付いていける者がいるとは信じ難いことだったが、思い当たるものがないわけでもなかった。それは先ほどの衝撃ですっかり忘れ去っていた、平穏な馬上で考えた仮説のうちのひとつでもある。

「……まさか、ストリオ人ですか?」

 相変わらず言葉を発することなく隣のダンが頷いた。帝国の北、北方ストリオンと呼ばれる土地に住む人々は人間離れした力を持つ戦闘民族として大陸全土で恐れられているが、大袈裟な逸話を無数に持つ彼らについては不明な部分が多い。それは彼らが外界の者と言葉を交わさず、いくつかの理由から捕らえて尋問することも出来ないからである。

「連中は今でも《魔王》を殺そうとしている。己の力を証明するためか、我々の知り得ない歴史的な何かのためか、理由はわからないが……ともかくそれが《監視所》の見解であり、目下最大の問題でもある」

 剣を持つ者として当然ストリオ人に思いを馳せたことはあったが、そんな話は聞いたことがなかった。リクエールはゴルツェ殿の言葉を驚きをもって受け止めた。

「40年ほど前に2名のストリオ人がこの砦の突破を試みて、1名は実際に《魔王》と対峙したという記録がある」

「結果は」

「剣を打ち合う音が一度聞こえただけで、後は沈黙だ。その後砦の生き残りが覗いたところ、《魔王》の周囲に血溜まりらしき影が残るばかりでストリオ人の姿はなかったという」

 彼らでもまったく敵わないのか。リクエールの感想はそれだけだったが、ゴルツェ殿の発言の中には本来もうひとつ驚くべきことがあった。それはたった6人で少なくともひとりのストリオ人を食い止めたということ。各国の軍がひとりのストリオ人によっていくつもの部隊を失ったことを踏まえれば、驚異的な戦果である。リクエールも含め『聖銀の眼』が大陸でも最上位に相当する能力を持つ兵たちで構成されていることの証だった。

「つまりだ、私たちの真の仕事は得体の知れん奴ら同士を引き合わせないようにすること。まったく迷惑な話じゃないか」

「……なるほど、ようやく納得出来ました。着任早々弱音など、情けない限り」

「いや、これで『入隊試験』は終了だ。改めて、これからよろしく頼む。リクエール君」

 ゴルツェ殿を皮切りにダン以外の皆が口々に歓迎の言葉を告げる。この砦に立つには、ストリオ人に対抗し得る力と、世俗でのしがらみを捨て、《魔王》を見てもなおすべてを投げ出すことなく任務をひたすらに遂行する精神力を持っている必要がある。過去にはこの洗礼に耐えられずこの地を後にした者も少なくない。

「明日からは君を加えた新編成で訓練が始まる。覚悟しておけよ」

 オリアンが片方の眉を上げて悪戯っぽく言った。

 

  大陸歴809年の春、《魔王》は静かに佇んでいた。それがいつまで続くのかを知るものはいない。

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