誰知らぬ夜
白い岩窟の天井に開いた穴から、月が大きく見えていた。地上では羊たちが眠り、村は静まり返り、僕はこの湖で船に揺られている。日中はみんなが夢中で魚を取る波のない青い水面。夜中に、釣竿も網も持たずに船を出しているやつがいることを誰も知らない。振り返ると桟橋の端に括り付けられた魔道灯の小さな光が見える。それ以外は自分の掌さえよく見えない暗闇で、もしあの魔晶石が砕けてしまえば見慣れた湖で遭難することになるんだろう。日が上るまでの漂流、ああ、それはちょっと楽しいかもしれない。
横になってそんなことを考えていると、船のすぐ側で妙な音がした。魚の跳ねる音じゃない。湧水のような。湧水? そこで僕は人生最大の危機を迎えようとしていることに気付いた。水龍の息吹だ! 慌てて櫂を手に取る。船速大会ではいつも最下位を争う僕の腕で逃げ切れるか? 櫂を水面に突き立てる間にも不気味な音は大きくなって、船体も傾き始めている。この暗さで転覆でもしたら、おまけにこの湧き上がるものに巻かれたらたぶん助からない。誰にも知られることなく。側面ではなく船尾で波を受けるように必死に踏ん張ると、漕ぎ出さなくても勝手に外へ流されていく。これは上手い。もしかして波のあるところが僕には向いているんじゃないか。自惚れも束の間、いよいよ水面が冗談じゃないくらい盛り上がって、背後からかかるとてつもない力に、船から放り出されそうになる。足を船梁に掛けると、ほとんど直立しているような状態だ。重心を後ろに保たなければ。その一心で底板に背中を押し付ける。永遠のような数秒を耐えて、すこし水流が弱まった気がする。いいぞ、このまま。
昔から、水龍の息吹を浴びて生き残ればその先の人生は幸福なものになる、という。誰なんだ、そんなことを言い出したのは。僕はただ、ささやかな自由を楽しみたかっただけなんだ。釣竿も網も持たないで、たぶん一生続く、魚取りの毎日への反逆を。
船底から嫌な音がした。