春の夜、後の祭り
グラスを満たす琥珀色には、いくつもの星が浮かんでいる。
祝祭の場をひとり離れて、男は丘を下ったところにある岩に腰掛けていた。春の夜風が特有の香りと人々の狂騒を伴って吹き抜けていく。青々とした草の揺れが風を目に見えるものにして、列をなす陰影は遠く町の外壁まで続いた。男がここへ来たのは二度目のことで、一度目は何年か前、彼の家の周りを毎日うろついていた猫が姿を見せなくなって10日が過ぎたときだった。そのときは何故だかどうしようもなく悲しくて、少ない稼ぎを切り崩して買っていた餌を意味も無く足元に撒いたりした。その餌もやがて土に混ざり、今ここでわずかな音を立てている野草たちの先祖の養分にでもなったことだろう。どこかで、あの猫もそんなふうに緩やかに消えていったのかもしれない。この世のものは、ほとんどすべてがそうなるのだと男は思った。ほとんど、すべてだ。
ありったけの楽器を掻き集めて行われた丘の上の無秩序な演奏は、いよいよ最高潮へ至った。人々の歌声の中にはすでに意味のある言葉など無くなって、笑っているような、泣いているような、不思議な響きがただそこにあった。男が今夜ここへ来たのは、彼とあの歌手たちの暮らすコロニーの最後の夜だからだった。明日には大半の住民がこの地を後に、新天地を目指すことになる。男は一度目に来たときとは異なる感情を抱えて、片手には餌ではなく強い酒を持って、騒がしい風に吹かれるままに座っていようと思ったのだった。
そうして時折思い出したかのようにグラスに口をつけながら、ぼうっと時間が過ぎるのを待っていると、丘から草を踏みしめて下りてくる気配がした。
「おれは残ることにしたよ」
祭りの夜の三日ほど前、毎朝の挨拶と変わらない調子で、唯一の友人に男はそう告げた。次代の守護者を見つけることが出来なかったコロニーが取り得る選択肢は限られていて、最後の守護者と別の道を選んだ人々の末路を知るものは一人としていないが、おそらく〈獣〉に成り果てるのだろうと言われていた。もちろん彼もそれを承知の上で言っているのだった。
友人は一瞬、言葉が出なかった。しばらくの間を置くことで「そうか」と搾り出せただけで、それ以上はやはり何も言わなかった。
「どうしてだ?」
岩の脇に立って腕を上へ伸ばした友人は男に尋ねた。先日と違うのは、友人にも考える時間があったということ、そして今は酒を持っているということ。酔いが回っているかどうかは関係ない。
「門番だからさ」
男はこのコロニー〈ヘクトライト〉の生まれではない。もともとは素性の知れない旅の集団の一人で、ここを終着地と見て仲間たちと別れたのだった。彼は旅の仲間たちから必要とされる人材だったし、彼自身も旅の生活をいつまでも続けたいと思っていた。しかし〈ヘクトライト〉の、開いたまま誰も動かすことが出来なくなった東西一対の機械仕掛けの大門が男の旅を突然に終わらせた。こいつを動かしてみたい。ただそれだけのために男は馬車を降り、以来生涯を捧げてきた。そしていつしか男は門番と呼ばれるようになった。
「おまえらが出て行った後、戸締りをしなくちゃならない。それから外周の見張りも。年寄り連中に任せてはおけないだろう」
「戸締りって……門のことを言ってるのか? 十年も弄くり回して未だにびくともしないじゃないか」
それは間違いだ。男は友人から見えることのないように、にやりと笑った。
「だいたい、門を閉じればどうにかなる問題じゃない。みんな獣になっちまうって話だろう」
「おれは昔、捨てられたコロニーを何度か見たことがある。当然、獣も居たが……あれはあれで、いいんじゃないかと思ってな。どうやら奴らは飢えて死ぬことも、生きながら腐れることもない。まあ、そもそも生きているんだか死んでいるんだかも分からないが。とにかく、おれたちみたいなものと奴らとが交わるから具合が悪くなるんだ」
「だから町ごと封鎖して、永遠に死者のパーティーを楽しもうって? 正気じゃない」
「おれのことばかり言うが、なあ、そっちだって楽な道じゃないぜ。なにしろ全員、旅は素人だろう。しかも町をあげての大移動ときた。灯守様だって、もうあまり無理出来る状態じゃあない。だからな、おれの家に、面倒ごとが起きたときの対処方なんかを記した本がある。おれの恩人が書いたものだ、必ず役に立つから持っていけよ」
それにな、 もう、正気を保つ必要もなくなったんだ、おれには。ああ、明日が待ち遠しい! そう言って、男は残り少なくなった酒を飲み干した。
翌日の正午、新たな住処を探す人々は準備を整え、コロニーを出た。最後尾はあの友人が守っている。彼が生まれたときから開いたままの門を通り過ぎ、しばらく進む。誰もが名残惜しそうに何度も振り返り、友人もまたその一人だった。
すると突然、地鳴りにしては奇妙に高い轟音が響き渡る。それはちょうど、昨晩奏でられたあの音楽のような。誰かが叫んだ。
「門が閉まる!」
かつて旅の仲間から〈技師〉と呼ばれた男、今日までは〈門番〉と呼ばれた男、彼はその両方の役割を見事に果たし、外壁の上に堂々と立つと声を上げて笑った。