御者の話
町を出て三日が経った頃、荒れた道を進んでいくと、旅行団の持つ二台の馬車のうち物資を載せた二号車の車輪が破損した。そちらの御者を務めている団長から、一時停止の声がかかる。
ナタン・ハロンは手綱を引いて馬たちを止めると、一座の面々を乗せた一号車の御者台を降り、車室の側面にとりつけた工作用具の入った大きな箱を腕に抱える。
「何にする?」
訊いたのは、その歌声によって旅先での稼ぎ頭となっている女だった。どこへともなく続く長い旅程では、馬車の故障だけでなく様々な理由で足を止めることになる。そんなとき、それに対応する者が望む歌を彼女は歌い、同じく稼ぎの柱である奇術師の演奏が共に響く。
「ロラちゃんに任せる」
後方の二号車に向かいながらナタンがそう言うと、立ち台に座っていた護衛の女は間髪入れずにお気に入りを注文した。一座の中では古株のこの御者は歌姫の能力には今でも感心しているが、これといって希望する曲はもはや無かった。というより、彼自身もその大半をそらで歌えるほど何度となく聴かされてきたのもあって「どれでもいい」というのが正直なところだった。実際にそう言うと顰蹙を買うことが過去の経験から分かっているので、ロラ・ステイレルが旅に加わってからは選択の権利を彼女に譲っている。あるものごとを手に入れるのは、それを一番喜ぶ奴であったほうがいい。
結局、応急処置的な補修を施すよりも車輪を丸ごと予備と交換したほうが良いということになった。
「これなら旦那だけでもどうにか出来たなぁ」
割れてしまった車輪を車軸から外しながら、隣で様子を伺う団長にわざと聞こえるよう、御者はぼやいた。単純な作業だった。
「いや、私も年だからな。もう力仕事は出来んよ」
「素手で<狼>をぶちのめしておいて、よく言う」
「いったい何年前の話をしているんだ?」
一号車から聞こえてくる歌に軽口を乗せながら、新しい車輪を嵌め込む。
馬を操るだけでなく、町での見世物で使う小道具の製作から今回のような馬車の修繕までするのが一座での彼の役割である。元々そんな役割を持ってはいなかったが、技師だった団員の一人が「降りて」しまって以来それに代わる人物が見つからなかったために、比較的器用で力もある御者に御鉢が回ってきたのだった。最初は貧乏くじを引かされたような気がしていたが、今となっては誰に頼まれたわけでもないちょっとした工芸品を拵えたり、本職顔負けの技術を身につけるまでになっている。
留め金を打ち、車体を支えるために噛ませていた鉄材を引き抜いたあと、辿ってきた道とこれから進む予定の方角を見回す。わずかに通行用と思われる頼りない帯が地平線まで続き、その両脇に広がる荒野には巨大な石の花が点々と並ぶ、うんざりするほど見慣れた光景がそこにはあった。
「毎度毎度、道は長いにも程があるっての」
旅の時間の九割以上は、こうした土地の中をのろのろと進んでいくことに費やされてきた。町へ入れば楽しいことの一つや二つは、もちろんある。しかしそれはほんのひと時の休息にすぎず、一座はまた色を失った危険な荒れ野に戻っていく。かつてどこかの町で旅行団に加わりたいと掛け合ってきた少年にそうした実情を話したことを、ナタンはよく思い出した。
───なのに、どうしてそれでも旅を続けるんですか?
立ち止まっていたら、世界の果てにも、楽園にも辿り着けやしない。
護衛の話
車室からの緊張した空気を察知して、車体後部の立ち台に腰掛けていたロラ・ステイレルは飛び起き、帽子を目深に被る。
「九時の方向、二頭、かなり早い」
「はい!」
報告に応えながら車室の外面に備え付けられた相棒、旧時代のライフル銃を手に取った。先端にはすでに剣が着けられている。本来の役割である射撃は今回も出番がなさそうだ。速度を落とした馬車から飛び降り、すぐさま駆け出す。かたりと開かれた窓から顔を覗かせて声をかけてくる女に背を向けたまま、護衛は手を振る。
走ること数秒、ちょうど守備位置についた頃にロラは襲撃者の姿を視認した。かつて存在した動物の成れの果てとされるそれらは総じて「獣」などと呼ばれ、今回はその中でもよく知られる犬型であることがわかった。運動能力が高く、手練でも油断は出来ない相手が二頭。ライフル銃を持ち替え、銃床を前に構える。
あっというまに距離を詰め躍り掛かってきた獣の鼻っ面に、鉄で補強された銃床が叩き込まれる。物悲しい音とともに、赤銅色の動物が吹き飛んだ。振りぬいた勢いのまま体を反らしながら、続くもう一頭の胴体を蹴り上げ、着地したところを狙って剣を突き出す。
黒く腐りかけた血液を丁寧にふき取った銃を所定の位置へと戻す。帽子を脱ぎ、ロラは立ち台に腰を下ろした。ほとんど同時に、再び馬車が動き出す。
「お疲れ様」
やわらかな労いの声に振り返って、照れたように笑う。旅の一座に加わってから随分経つが、自分の働きに対してそうした言葉を投げかけられるのは、何度経験してもくすぐったい思いがした。
複数の獣を一蹴することを可能にしているロラ・ステイレルの特異な戦闘能力は、同規模の旅行団では最低五人は必要とされる護衛役を一人で賄っている。その力ゆえに故郷を去らなければならなかったが、後悔はほんのひとかけらさえなかった。
御者台の方から、街が見えたと叫び声が上がった。獣を砕いた瞬間の手ごたえが残る腕を抱えて、灰褐色の大地に伸びていく車輪の跡を眺める。
「どうかした?」
「いや、なんだか、遠いところまで来たなと思って」
この世界で旅をすることは難しく、だからこそ価値がある。いろいろなものを怨んだけれど、きっと私は幸運者なのだ。
「そう、だけど……わたしたちはもっと遠いところまで、どこまでも行くのよ」
恩人の一人でもある女の陶然とした台詞を聞きながら、ロラは過去ではなく、未来を思った。