白い明日は
大きな鞄を肩に引っ掛けた女が、上等とは言えない乗り心地の荷車を降りる。草原を貫く道、その緩やかな坂を下った先には、間も無く暮れる陽を受けてあかく染まった町が見える。
こんなところで降りなくても、町まで乗っていけばいい。ここで降ろして、と突然言った女に御者はそう提案したが、運賃として差し出されたものを見ておとなしく引き下がったのだった。唯一の客をその場に残して走り出した馬車、といっても牽いているのは馬ではなくクリーム色のフェザーテイルだったが、その手綱を握ったまま振り返る彼に、女は軽く手を振った。それを彼がどう受け取ったかは、顔に影がさして判別がつかなかった。
小さくなっていく馬車を横目に、女は路端に屈みこんで何かを拾う。それは歪なかたちをしたコインだった。うねる豊かな髪の男性の横顔が浮き彫りになっている。添えられた文字は潰れている部分もあったが、無事な箇所も女には読むことが出来ない。雑多な商品を積んで騒がしい荷車の中で、どこを見るでもなく地面に目を落としたとき、夕日を反射してきらめいたそれを見つけたのだった。
快適とは言えないまでも歩くよりは楽な旅を切り上げるほどの価値が、そのコインにあると思う者はすくないに違いない。だからこそ、この時間までそこに落ちたままになっていたのかもしれなかった。
しかし、女はちょっとしたコイン収集家だった。ただ、積極的に探しているわけでも、対価を支払ってまで手に入れようとしているわけでもない。落ちていたら拾う、その程度の。
「どこのかしら、これ」
旅の供としては、貨幣は頼りない。世界には無数の貨幣があり、それぞれ価値が違う。隣り合った地域では交換してもらえることもあるが、移動距離が伸びるにつれ、そうもいかなくなってくる。物々交換か、その場で日銭を稼いでその場で使う方が間違いも諍いもすくなく出来る。それが女の経験則だった。
それに、コインというのは案外重く、集めればそれなりにかさばるものである。女が住処としている港町の宿にはこれまで手に入れたコインが詰まった袋がしまってあるが、持ち歩こうとすれば役に立たないばかりか、文字通りの重荷になる。旅の供に向かないというのは、そういった面もあった。
それなのに、どうしてつい拾ってしまうのか。理由は女自身にもよくわからなかった。実利をひとまずわきに置いてみても、もともと金銀財宝にはさほど興味のないたちである。あの御者に握らせたエーテルもいくらか相場より多かったが、だからといって惜しむこともなかった。そうすると、貨幣としての価値とはべつのところに理由があるはず。
「綺麗と言えば綺麗ではあるけど、」
しかしそれが決め手ではあり得ないという思いがある。世の中にはもっと綺麗なものが、いくらでもあるのだ。
もしかすると、その中にひとの営みを見るからかもしれない。これはひとが、ひとの中で生きるために作り出されたものだから。
野山で育ち、行くあてなくさすらい続けていると、ひとが遠くなることも珍しくない。しばらく誰にも会っていないときに限って、どこのものかも定かではないコインを手にぼんやり眺めている、ような気がしてくる。
「……そんな柄じゃないわよね」
見れば、馬車はもう町のすぐそばまで歩みを進めている。晩夏の風にそよぐ野草に、長く伸びた女の影がうつる。陽の沈む方に目を向ければ、濃紺の山の輪郭がまばゆく光を放っている。
完全に暗くなる前に、町に着ければいい。鞄のポケットに異郷のコインを突っ込んで背負うと、下り坂を歩き始めた。